「ワザ

「技」というものは、形としては見えないものなので、説明するにも理解するにも苦労します。そこで何か手がかりがあればと思い私なりに考えてみました。

ある「型」を作るのに、あるいはたどり着くのに、その見えない「技」を使い身体を動かします。技を学ぶのに、勘違いしないようにして欲しいことがあります。スキーのビデオを見て真似ようとしてもダメです。さらにはコマ送りまでして動きを見ている人、とんでもありません。型の動きの順序を全て覚えたとしても、技を読み取ることは不可能なのです。

ゲレンデで指導員と相対して、ゆっくりとした手順で簡単な動作の見本をみせていただいても、同じ様に動けなかったことがありませんか。頭で全て理解しても、その動きが順を追って出てこないというのが現実です。それなのにビデオで分かるはずがありません。上級者になればなるほど、見えない部分の技が必要となるために、学ぶのが難しくなりますが、練習を積めばいずれ出来るようになります。

この後は、頭を切り換えて考えないと練習しても出来ません。上級者の技術の伸びを止めている一つの原因が、自分自身が過去に苦労して覚えた技なのです。これが他を顧みることを許さないのだと思います。一つの型に、今までと違った動きの技でたどり着く、違った感覚を身につける、ということに能力を使って欲しいと思います。これが取りも直さず、今までに覚えた技に磨きをかけることとなるのです。そしてこれは難しいことではありません。

こんな例があります。2シーズン前だったと思いますが、毎年八方に来てトレーニングをしているインドの友達と久しぶりにスキーをする機会があり2時間ほど一緒に滑りました。彼は50分間で、今まで彼が習った技の感覚や意識とは違う方法でのスキー操作をマスターしたのです。言葉が全て分かるわけがない彼が何故出来たのかというと、今までの滑りの感覚を、全て捨て去ることができたからなのでしょう。そう、新たなキャンバスに絵を書くように、新たな動きを身体の中に描きとめたのです。彼がリフトの上で、何回も口にしていた言葉があります。「ターンをしようと思っていないのに、何故ターンができるのだ」、「ターンのイメージがないのになぜ?」。
 ターンをしようという力を使っていないのに、何故できるのか最初は不思議だったようです。帰り際に「どうだ、上手くなっただろう」と言う彼に、「ああ、でも見た目は殆んど変わらないよ」と言ったら、英語だかヒンズー語だか分からないが、「そんなことはない、感覚が全然違うから動きも違うはずだ」と、言っているようでした。(2004年9月3日 サダハル)